2016年2月23日火曜日

小泉今日子さんの『書評集』から言語化できた、私が書きたいこと

小泉今日子さんが新聞に10年に渡って寄稿してきた書評がまとめられたらしい。
その書評についてインターネットで見つけた言葉たちが素敵で、思わず、反響が大きかったといわれている書評そのものも含め、普段持ち歩いている日記帳に写してしまった。

とくに印象に残ったのが、小泉さんが語っている下記の3つのこと。

“本のことも作家の皆さんのこともとくに詳しいわけではない。それはそういう評論家の方が書けばいいと思って。だとしたら私は何が書けるんだろうと思うと“その本と向き合った時間のこと”しか書けないな、と。その前も後も関係な“この本と自分が向き合った時間のことだけ書こう”と思って書いていました
出典 『コトバのお年玉 ~薬師丸ひろ子×小泉今日子×有働由美子の初夢トーク~』(NHK) 


それらの言葉はそのまま、私が書きたいと思っていることと、書きたい気持ちを代弁してくれている。私はエジプトの専門家ではなかったし、マサイの専門家でも、ましてやナイルの専門家でもない。だとしたら私に何が書けるんだろう?と思うと“そこに暮らす人たちと出会い経験した時間のこと”しか書けないな、と思ってきた。それを書きたいと思ってきた。

書評集の冒頭に「その本を読みたくなるような書評を目指していた」と書かれているのと同じように、私は自分の文章を読んでくれた人が、どこかに出かけたくなるような、あるいは誰かに会いにいきたくなるような作品を目指している。あるいは、どこにも出かけないにしても、どこかに出かけて誰かに会ったような気持ちになれる作品をつくりたい。その人が「旅」を通して、悩みや不安、関心を響き合わせることができる思いがけない相手に出会えたら、とても嬉しいと思う。

“その本を読みたくなるような書評を目指して10年間。たくさんの本に出会った。読み返すとそのときの悩みや不安や関心を露呈してしまっているようで、少し恥ずかしい。でも、生きるということは恥ずかしいことなのだ。私は今日も元気に生きている”
 出典 小泉今日子「書評集」(中央公論新社)

5年前に旅をして会いに行った人たちの言葉と、その時に感じたことを綴った文章に対して、いま改めて振り返って言葉を書くという連載を始めた。それは当初考えていたよりも、とても恥ずかしい作業になっている。青かったあの頃の自分を見ると顔が赤くなるし、今その頃の自分から少しは変わったよと言おうとしている自分は、どうしても格好つけているみたいでやっぱり恥ずかしい。

書きあぐねていて困っていたところに、彼女の言葉は沁み込んできた。

恥ずかしくても、生きていていいんだと、彼女のように言いきりたい。いい子の文章を書くことをやめて、ただ堂々と真っすぐに綴りたい。それは、それを読んでくれた誰かが自分の心を見つめる勇気に繋がるかもしれない。


“たとえば自分でテーマを決めるエッセイの中では絶対私は書かないと思うけれど、その本のテーマの中にそれがあるから、思いきって書けることがある。「それに私は同調したんだよ」とか「それについて私はこう思ったんだよ」っていう書き方ができるので、(書評は)普段自分が書かないことを引き出してくれる場でもありました。”

出典 『コトバのお年玉 ~薬師丸ひろ子×小泉今日子×有働由美子の初夢トーク~』(NHK)


書くことと読むことはきっと、普段の暮らしの中でなかなか口に出さなかったりできなかったりするテーマに向き合う勇気と、その先に待つ癒しを、静かに連鎖させていくことなのだ。

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