2015年10月18日日曜日

再会の夜


いつの間にか空が明るくなっている。

こんな風にただ友達と歌ったり、話したりしたのは、いつぶりだろう。

振り返ることは、きっと随分前に卒業していた。
いま会うのは一緒に未来を生きる為だ。

同じ時間を生きていることを、そっと確かめ合うため。

いつの間にか大人になった私たちに、
懐かしくて新しいギターの音色が染み込んでくる。


2015年10月17日土曜日

日常の中に旅の力

明け方に引っ越しの荷造りを終え、バックパックを担ぐ。

早くサマータイムが終わらないかしらと、
真っ暗な朝5時半の道を歩きながら思う。
この町は朝の7時半過ぎまで明るくならないのだ。

家の近くにはひとの気配がない。
しばらく歩くと深い闇の中から脈略もなくタクシーが2台現れる。
1台をやはりどこからともなく現れた若者たちが拾い、もうひとつを私が拾う。
送ってくれた夫に引っ越しを託して、私はメキシコシティに向かう。

ちょっとした「出張」が入った。
日本で会いたいと思いながら連絡できずにいた人が
なんの因果かメキシコシティに来ていることを知った。
私はその人をいつか取材したいと思っていた。
その前に話さなければいけないことも沢山ある気がしていた。
そう思いながら、結構な時間が経っていた。

高速バスに乗って6時間半というと東京からどこまでいけるのだろう。
日本にいたら、私はこの出張をしただろうか?
したような気もするし、しなかったような気もする。
「したい」とも「しよう」とも思いながら、
正当化できなくて先延ばしにしていた気もする。

「旅」という概念は、直感に従おうとするときに力を貸してくれる。

暗がりの中を走り出したバスのシートで
少し冷えた体を胎児のように丸く抱えながら
本当はどんな日常も旅であることを、思い出す。


眠りから覚めると、太陽は曇り空を透けて差し込み、
高速道路はその向こう側に大都市の予感を含んでいた。



2015年10月16日金曜日

夕暮れのあと


伸びてきた前髪の影が
ちらちらと揺れて

植木のサボテンが微かにそよいで

夜に向かう飛行機の影を追って

背中から半分ずつ空が暗くなる

すん、と静かな時間










2015年10月11日日曜日

散歩道と夕暮れ


お昼どき。
なだらかな丘を登りトウモロコシ畑を横目に、娘ちゃんを迎えにいく散歩道。
景色と親友の境界線が曖昧で、彼女はけっこう幸せなのだな、と思う。



夕暮れ。家に帰ってきたら、夫が綺麗にハンモックに収まっていた。
リラックスしたいい表情をしていた。


誰しもが、その人に似合う時間帯をもっているような気がする。



2015年10月10日土曜日

まだ題名のない1日のこと

 一昨日と昨日、夫が熱を出していた。お腹の調子を壊すこともなく回復した。なんだったのだろう。

朝から天気が良くて気持ちがいい。屋上で朝ご飯を食べることにした。澄んだ空に曲線を描く山並みが美しくて、夫は長野に住んでいたときを思い出すと言っていた。




となりに住むドイツとイギリスのカップルが、扉を全開にしていたので玄関先にお邪魔して、少しおしゃべりをした。仕事はリタイアしたと思われるふたりはドイツの家を売り払い、終わりの決まっていない旅をしているそうだ。コスタリカに1年、オアハカには半年。その旅はすでに何年か続いていてこれから何年も続いていくという。「若いうちにだからこその旅もあるわよ」と奥さんが微笑んだ。






散歩に出て、次に引っ越すアパートの近くのカフェに入った。








古いものをちゃんと使ったり、漆喰やペンキを塗ったりすれば、いい空間は作ることができる。そんな空間をやっぱりいつか、私たちが愛する町に作りたい。


私たちはこの町の風景から、日々学んで吸収している。




帰ってきて、半分ずつ空が染まって行くのを見た。


少しずつ染まりながら、私たちもどこかに向かっている。


いつかこの日のことを思い出すんだろう。






2015年10月9日金曜日

Mi Hijaと彼は言う。

アパートから1ブロック南に行った角に小さな八百屋がある。野菜と卵以外は売っていない。

部屋を借りてから、近く似たようなお店をいくつか回ったけれど、ここの野菜が一番新鮮でおいしい。朝・晩 ちょっと果物が欲しいとき、スープの玉葱がたりないとき、サンダルを引っ掛けてここにくる。

ここで買い物をするのが好きなのにはもうひとつ理由がある。

お店のおじさんの慈しむような笑顔。
Mi Hijaと彼は言う。私の娘よ、という意味だ。 

Que tal, mi hija(私の娘よ、元気か?)
Esta bien, mi hija (私の娘よ、大丈夫だから)
Hasta luego, mi hija (私の娘よ またおいで)

言葉は言葉どおり取るべきものではないかもしれない。アメリカ版知恵袋のスレッドには「スペイン語のmi hijaを英語で言うと?」というトピックが立っていて、そこにはMi hijaにはあまり良くない使い方もあると書かれていた。男性が大人の女性に向かって使うときは、馬鹿にしていることもあれば、誘っていることもあるらしい。私はまだその場面に出くわしていないけれど、そういう使い方もあるのは想像できる。

八百屋のおじさんの Mi hijaは言葉のまま、私の娘よ、と聞こえる。
そして私は彼がその一言できゅっと縮めてくれた距離が、素直に嬉しい。

彼には小学生くらいの息子がいる。夜の時間、彼は時折その子を隣に座らせて、店番をしながら宿題を見てあげている。その優しいまなざしと声のトーンが、そのまま私に向かって こんばんは、mi hijaと言う。

一昨日のお昼は、日差しと乾燥で白くなってしまった私の腕を見て「薬局に行って◯△っていうクリーム買うといいよ」とアドバイスをくれた。

今朝は小銭を探して鞄を引っ掻き回す私を見て呆れて笑っていた。

Mi hijaと彼が声をかけてくれるとき、世界の様々な国で私にまるで自分の娘であるかのように接してくれた人たちのことを思い出す。

たとえば、チリのホストママのことを思い出す。彼女はいつも私にMi hijaと言った。ときに厳しさを、ときに呆れたため息を、そしていつも愛をこめて。彼女は一緒に住んでいた3ヶ月間、私を娘のように育ててくれた。

何日か前に道を聞いたおばあちゃんのことを思い出す。「私の娘よ、右に行けば大丈夫よ」。薄暗くて雑多な昼間の市場で、そのひとことはぽっと温かい灯りを灯した。

オリーブ山で泣いてしまった私を抱きしめてくれたおじいさんのことを思い出す。「私の娘よ、きっと神のご加護がある」。安心と解き放たれた悲しみで、娘どころか赤ん坊のように私は泣きじゃくった。

Mi hijaと誰かが声をかけてくれるとき、知らない風景はすっと身近なものになって、私はそこに自分の居場所があることを知る。血のつながってない誰かとの間に築くことができる関係が、想像よりも深いことを思い出す。


毎日行く八百屋さんでのちょっとした会話は、いまここに暮らしていることに対して日々承認のハンコをもらっているような心地よさがある。小さな袋を下げて店を出ようとするとき、「目の前の何気ない景色にはたくさんの時間と可能性が含まれているのよ」と優しく背中を押してくれるのだ。