2015年8月30日日曜日

がらん



雨の中の荷物を運び出して
ふらふらしながら帰ってきた家は
がらんとしていて、声がよく響いた。

匂いが違う!と夫が驚く。
最初に内見に来た時と同じ
建物の匂いがした。

今朝まで私たちの家だった空間が
「物件」に戻ったのを知った。

和室にごろんと寝転ぶ。
久しぶりに畳の匂いがする。
最初のころ襖を開ける度に香り立っていた
緑の匂いが懐かしく甦る。

この部屋の天井の梁に一目惚れして決めた家だった。

「家具をどかしたから香るのかな?」
色々言い合ってみるけれど、真相はわからない。

照明を取っ払った部屋は、ひとたび日が落ちると
あっという間に暗くなった。
残しておいたフルートのランプを付けると
明かりの温かさと同じくらいほっとする。

ここは、まだ私たちの家だ。

1階で夫がキッチンの掃除をしている音がする

わたしは寝不足が響いて、現実と夢の間に浮いている
感傷に浸るには 疲れて感覚がうまく機能しない

なにかオチをつけるにも頭が上手くはたらかない

そうして時間が過ぎていくことが惜しいなと思う

明日からは別の流れが私たちを運んでいって
この気持ちには綺麗に上書きされてしまうのに

2015年8月29日土曜日

引っ越し前夜


いよいよ明日が引っ越し、明後日が引き渡しだ。

通いつめた肌色の灯りをともすカフェのマスターにご挨拶。
いままで知らなかったマスターのことをいくつか教えてもらった。
「メキシコにもトムネコゴがあったらいい」のに、と言ったら
「あるかもしれませんよ」、と彼は笑った。

次は夫がよく通っているお店に入る。
カウンターに通されて、最後に何食べようと見ていたら
店長が「今日はとっておき用意してますのでちょっと待っててくださいね」と言った。

「これお店からです」
とん、とシャンパンボトルが目の前に置かれて、なぜかグラスが8つも出てきた。

店長がスタッフさんに「ちょっと集まれ」と声をかける。
お店は満席でフロアもキッチンも忙しかったのに、全員集めてグラスを配った。

「それじゃあいいかな? 門出に乾杯!」
「かんぱーーーい」

かちんとグラスが8つ合わさって
お店とお客さんの境界線がすっとその瞬間だけ消えて
ああ、この町の時間を一緒に過ごしてきた人たちなんだと思った。

愉快で賑やかな人たちは、くくっとグラスを飲み干すと
すぐにいつもの元気を振りまきながら、フロアやキッチンに戻っていった。

いつものサラダがでてくる。今日はでたらめなくらいに大盛りで出てくる。

原稿の終わりが見えなくて青くなっていた夜
アフリカへの長期出張でお肉しか食べてなくて口内炎がつくって帰国した時
ビール片手に幸せそうな旦那の隣で、この野菜たちを食べて元気になってきた。


帰り道。いつもの橋の上で、急にこみ上げてきた。

最初にこの町に引っ越してきたとき私たちは小さな部屋に住んでいて
「前庭(井の頭公園)が最高に広くて気持ちいいからいいよね」と笑いあっていた。

毎晩の帰り道、池にきちんと並んで眠る白鳥たちを見て安心して、
虫や蛙の声に包まれて眠った。

庭だったから、色んなお気に入りのスポットがある。

あのベンチは橋を見たいときのベストスポット。夏は蚊が多いけどね。

あのベンチは言葉が出てこないとき。
背もたれに刻まれたプレートの言葉にどぎりとしたんだ。

あのベンチは木陰の感じが抜群に素敵だけど、
だいたいはいまにも恋が始まりそうなカップルが座っている。

広い宇宙を感じたいときは、高くそびえる木々の中を。
隠れて泣きたいときは、雨を受けてきらめく葉の間を。

そうそう水辺に飛び出しそうなあの枝は、
他の蔦が絡まってちょっとセクシーなところがいいんだ。

そんなことも、もっともっと細かいことも知っている。


32年いろんな場所に暮らしたけれど、間違いなく
もっとも穏やかで日々幸せを感じていたのがこの2年だった。

自分が生きるのに必要な要素がバランスよく合わさっていて、
その調和の中に私はぷかぷか浮いていることができた。

「だからこそ、より深く潜るために離れなきゃダメなのよ」

言葉を仕事にしている大先輩が言った。迷いなく。

「私の遺言だと思いなさい」

先に進まなくてはいけないことは分かっている。

それでも次にこの橋の上に立つ時には
ここに暮らしていないことを思うと、澄んだ夜が離れがたい。

旅ばかりしていくと思っていたのに
暮らしにこんなにも強く執着している。

今夜の自分は、雨粒を残した葉っぱの一部だと思った。

2015年8月28日金曜日

讃歌

さわれないけれど
手の中にそっと包み込んで
大事にしたいもの

日常はそんな瞬間に溢れていて

それは
となりに住む小さな君たちへの行ってらっしゃい
公園を横切って帰ってくる
ご近所さんへのおかえりなさい

誇らしげな桜
匂い立つ緑
水面を揺らす夕日
蝉と蛙の合唱
やがて輝く木々

行きつけの喫茶店へと下る坂の風
低く柔らかいジャズと肌色の灯り
時おり静かに花咲く会話

夜の帳 膨らみだす森
遠く光る橋
横切る自転車の車輪
ひっそりと囁くギターの音

ばったり出くわした君が
ふだん交わらない日常を生きていること

透明で静かな気持ち

陽気なリズムに乗って
次はなにを見つけるんだろう

2015年8月25日火曜日

公園でのひととき




引っ越し作業の息抜き
行きつけの店にご飯を食べに出て
夫とずっと先の未来の話をした。
時々私たちの間に訪れる、静かに夢が溢れる瞬間

「いなくなるまで毎日来てくださいね!」
お店の人たちに見送られて、公園の階段を下る。
夏の終わりの公園に人と音楽が戻っている。

今日の橋の上はエレキギターとベースのデュオ。
アンプに繋がれて奏でられる、夜をそのまま包むようなメロウな曲。

音に包まれた森の中を歩くと、映画の中にいるみたいな気持ちになる。
現実と夢の境にぽっかりと浮いたような時間にとどまりたくて
水面の近く、ベンチに腰を降ろした。

遠くの橋で下から照らされて水面に映る、
人や、車輪や、犬の影が橋の上を通り過ぎていく。
「だれが設計したのか知らないけれど、
あの橋と水の近さが好き」と夫が言う。

ところどころに明かりをつけた古いアパートが
水面に映り込むとフンデルトバッサーの建築さながらに揺らぐ。

ゆっくりと水面を横切る黒いカモの向こうを
帰る人、これからどこかに向かう人
ぽつ、ぽつと、いろんな早さの自転車が横切っていく

この心地よさの中にずっと浮かんでいたい。

音は前に進む。それに乗って私たちも前に進む。

演奏が途切れて蝉の声が戻ってきた。
それは少し弱くなっていて、夏は終わるのだと思った。

2015年8月24日月曜日

離れる準備

少しずつ、この場所を離れる準備が進んでいる。
今夜は細々と受けていた音楽レッスンのラストだった。

このまちに住んで3年。
長期出張の度になんども休会を繰り返しながら、
途切れ途切れで曲を書いてきたけれど、
ラストはずっと分からなかったコード進行がすとんと腑に落ちて、視界が開けた爽やかな回だった。
笑顔でお礼を言ってドアをパタンと閉めたあとに、ふっと寂しくなった。

これからでも公園で弾けるキーボードを買って(電池式持っていないので
夜な夜な奏でたい気分。せっかくこの公園のすぐ側に住んでいたのに、
その機会を作れなかったことが寂しい。

夜の公園を自転車で横切ると、季節は本当に一日
また一日と夏の終わりに向かっているのが分かる。
ここでは風が季節を教えてくれる。




今回、旅立つにあたって、夫と決めているのは
大々的な送別会はしないこと。

昨晩、うちに来てくれていた友人たちと温かい夕食を囲んだあとは
行ったことのないバーに飲みにいって、新しい人たちと出会った。
これからの私たちの旅にとっても
いま書いている3冊目の本にとってすごく大きな出会いで
愉快な音楽と張り合うように語り
飲み過ぎたら、今日は大々的に寝坊した。

ラストの日まで普通に暮らして
すっと次の舞台にジャンプしたい。

その日の想像がまだできなくて密かにやっぱり泣いてしまうのかなとは思っているけれど。
 
ここの暮らしが好きだと思う。何度も強くそう思う。
旅立つ日まで「暮らし」をしたい。