2015年9月25日金曜日

フェリア

9.25.2015

[フェリア]

「楽しいね」と夫が言った。
「楽しいね」と私は返した。

アパート近くの教会に移動式の遊園地が来ていた。細い色とりどりのネオンの明かりが夜を照らす。親に見守られた子どもたちが楽しそうに、くるくると回る車や観覧車に乗っている。的屋で大人たちが風船を割る。

ずらりとならんだ屋台が白く眩しい。お母さんが手の中で、きちんとこねて、適度に丸めた小麦の塊を、押し機の中に入れてぎゅっと圧を加える。出来上がった薄い生地が石の皿の上で熱されて、トルティーヤが出来上がる。その光景をじっと見ていたらお腹がすいた。小さなベンチに腰掛けて、私たちもその白い光景の一部になった。





洗濯

9.25.15

そろそろ、仕事をはじめないと。

[旅先の洗濯物]

洗濯だけは旅仕様になりそう。
暮らすために来ているのだから、近所の洗濯屋にもっていけばよいのだけれど、(その方が日常で関わる人も増えて楽しいはずなのだけど)、小さなバケツの中で畳まれたTシャツを見るのがやっぱり好きだと思った。

じゃぶじゃぶと手で洗い、ぎゅっと手で絞り、軽く畳んでバケツに入れる。

自宅の洗濯機で洗うと、こうはならない。機械から出した洗濯物は、絡み合ったものだけ解いて、畳まずに物干竿まで持っていく。

濡れた状態で畳まれた洗濯物は、私の旅の象徴だったりする。

マラウイとキルギスにチームで取材に行ったときのことを思い出していた。ある午後がぽっかり空いて、メンバー4人「洗濯するか」と楽しそうにそれぞれの部屋に戻っていった。その夜は「洗濯したー」とすっきりした顔で言い合った。何も考えずにざぶざぶとシャツを洗うのは、ちょっとした座禅のようだと思う。






2015年9月24日木曜日

アートがある町

9.24.2015

書けなくて、困って町を歩いていたら
「すみません、日本人ですか?」と声をかけられた。
漫画のNARUTOから独学で日本語を学んだというその若い男性は、「もう30分したら近くのギャラリーでパーティーがあるので行きませんか」と、誘ってくれた。

気づけば、あちこちに個性的なギャラリーやカフェが点在する地区に迷い込んでいた。
あとで合流しますと伝えて、もう少し町を歩いてみることにした。

アートがある町にくると、いい意味でどきどきする。

観光客向けの手工芸や、風景画がずらりと並んだ道は苦手。
これ綺麗でしょ? こんなのが好きなんでしょ?
という声が聞こえてきてしまう。

SNSが日に日に苦手になるのも、きっと理由は一緒。
綺麗なものが沢山並んではいるけれど。
「こういうのが「いいね!」をたくさんもらえるんでしょ」
という声が、聞こえてきてしまうときがある。

それは渋谷のスクランブル交差点を歩くのと、あまり変わらない。
自分もよそ行きの顔をしてハイテンションで歩かないと、
あるいは感覚に蓋をして歩かないと、そこでは生きていけなくなる。

SNSは滅多に会えない人たちのいる世界や近況を知れたり、
 深い瞬間を捉えたような文章にで会えたりするから、辞められないのだけれど)

アートは、むき出しな誰かの内面。
ああ、あなたにはこういう風に見るのね、私は考えてみたことなかったな。
作品を介して作り手と会話ができるような気がする。

アートは誰かが裸になった結果だと思う。
あるいは心の底からなにかを訴えたくて
作り出してくれたもの。

たとえ見た目が綺麗でなくても、それらが
表に出てきている町を歩くと、優しさを感じる。
誰かの肌に触れているときのように。


最近、上手い文章に触れて、勝手に自信をなくしていた。
いったい自分が書く意味はなんなのだろうと思っていた。



さらけだすことを辞めないでいよう。
歩いているうちに、自分の原点に戻っていた。

教えてもらったギャラリーに着くと
NARUTOの学生はもういなくて彼の友人たちが待っていてくれた。
無料で振る舞われていたビールを飲んで
作品を見て、陽気なジョークを交わし合って
連絡先も交換せずに別れた。
「明日は別のギャラリーでパーティーがあるよ。そこでまた会おう」

この人たちは無料のビールを飲み歩いているのか
アートを堪能して歩いているのか

分からないけれど、私は勝手に仲間になった気でいる。



2015年9月23日水曜日

名前と色彩

9.23. 2015

家を出そびれると、向かいのレストランで生演奏が始まってしまう。全然悪くない。今日はマリンバの演奏だった。

オレンジ色のアパートがある街角には
2つの飲食店が向かいあって並んでいる。

部屋から見える向かいのレストランの名は“Antigua Sabor”。アパートの1階にあるカフェの名前は “Nuevo Mundo”

Antigua Sabor”と“Nueva Mundo” 
つまり「古くからの味」と「新しい世界」。小説の舞台にでもできそう。


模様替えをした。
私の仕事場になるはずだった机は夫の宿題机になっている。座るには大きすぎるソファーに寝転がりながら斜め前でテキストブックに何かを書き込んでいる背中を眺める。勉強している姿を初めて見た。

オレンジの居間の向こうに、深い青の世界が現れた。

暫くの間は、想像を超えた色合いに魅了され続けるんだろう。




2015年9月22日火曜日

暮らしと旅のスケッチ

Pinned

整理整頓が苦手だ。小学校のころ、通信簿に「整理整頓」の欄があった。いつも「がんばろう」だった。

日々、目の前を過っていく言葉を捕まえるのが好きだ。それは小さいころからの日記帳に、理科や算数と書かれたジャポニカ学習帳に、インタビューノートの端に、あるいは何も持ち合わせてなかったカフェで見つけたテーブルナプキンの上に、書き留められている。最近では歴代のノートパソコンの中に,あちらやこちらのブログに、さらに最近ではいくつかのSNS上に、ばらばらに散らかっている。

20159月。少し長い旅に出かける前のこと。1週間ほど実家にもどって昔住んでいた部屋の片付けをした。20年弱暮らした部屋のベッドの下からは、大小、色も素材も様々な日記帳やノートが大量にでてきた。しわくちゃになったナプキンや、コースターの裏の走り書きもでてきた。それらは捨ててしまう予定だったのだけれど、日々、手を伸ばして捕まえてきた言葉たちは、そのままこれから書くものの肥やしになるような気がして、結局ダンボールにまとめて積んできてしまった。何冊かはバックパックに入れて、新しい生活に持ってきた。

あるひとが「本を書くということは、記憶を言葉で固定して、それ以外を失ってしまう行為だ」と言った。本を書くようになった今、彼の言葉が沁みる。それもあって、直近の本に活かされなかった記憶を失いたくないと思っている。

問題はどう管理するかだ。いつの間にか旅とも暮らしともつかない日々がはじまって、これまでの日記帳もこれからのものも全部持ち歩くことは不可能。SNSはいいね!に向かいすぎる。それも無意識のうちに。それでブログに行き着くのだけれど、例えば、国別にカテゴリーをわけてもその隙間に落ちてしまうものがある。テーマを決めてブログを作っても、だいたいそこにはまらないものが出てくる。

結局、同じハコの中に時間軸にそって放り込んでいく以外、日々のかけらを集める方法はなさそうだと落ちついた。あくまで「かけら」なので、とくに起承転結やオチがないもの、そのままでは外に出せないものも多い。いま見直せば、きっとなにかあたらしい言葉を加えたり、削ぎ落としたりすることもあるだろうけれど、基本は見つけた紙切れや、ああ覚えておきたいなと思う瞬間、浮かんだ言葉を捕まえただけのような走り書きをどんどん放り込んでいく場所にしようと思う。

日々前に進みながら、記録をたぐり寄せて大きく過去にも遡る。背景は白。

毎日変わっていく日々の色は、全てがまざりあえば、白になる。

それはささやかな色彩が映えて、そこから何を始めてもいい色でもある。