9.24.2015
書けなくて、困って町を歩いていたら
「すみません、日本人ですか?」と声をかけられた。
漫画のNARUTOから独学で日本語を学んだというその若い男性は、「もう30分したら近くのギャラリーでパーティーがあるので行きませんか」と、誘ってくれた。
気づけば、あちこちに個性的なギャラリーやカフェが点在する地区に迷い込んでいた。
あとで合流しますと伝えて、もう少し町を歩いてみることにした。
気づけば、あちこちに個性的なギャラリーやカフェが点在する地区に迷い込んでいた。
あとで合流しますと伝えて、もう少し町を歩いてみることにした。
アートがある町にくると、いい意味でどきどきする。
観光客向けの手工芸や、風景画がずらりと並んだ道は苦手。
これ綺麗でしょ? こんなのが好きなんでしょ?
という声が聞こえてきてしまう。
SNSが日に日に苦手になるのも、きっと理由は一緒。
綺麗なものが沢山並んではいるけれど。
「こういうのが「いいね!」をたくさんもらえるんでしょ」
という声が、聞こえてきてしまうときがある。
それは渋谷のスクランブル交差点を歩くのと、あまり変わらない。
自分もよそ行きの顔をしてハイテンションで歩かないと、
あるいは感覚に蓋をして歩かないと、そこでは生きていけなくなる。
(SNSは滅多に会えない人たちのいる世界や近況を知れたり、
深い瞬間を捉えたような文章にで会えたりするから、辞められないのだけれど)
深い瞬間を捉えたような文章にで会えたりするから、辞められないのだけれど)
アートは、むき出しな誰かの内面。
ああ、あなたにはこういう風に見るのね、私は考えてみたことなかったな。
作品を介して作り手と会話ができるような気がする。
アートは誰かが裸になった結果だと思う。
あるいは心の底からなにかを訴えたくて
作り出してくれたもの。
たとえ見た目が綺麗でなくても、それらが
表に出てきている町を歩くと、優しさを感じる。
誰かの肌に触れているときのように。
最近、上手い文章に触れて、勝手に自信をなくしていた。
いったい自分が書く意味はなんなのだろうと思っていた。
さらけだすことを辞めないでいよう。
歩いているうちに、自分の原点に戻っていた。
教えてもらったギャラリーに着くと
NARUTOの学生はもういなくて彼の友人たちが待っていてくれた。
無料で振る舞われていたビールを飲んで
作品を見て、陽気なジョークを交わし合って
連絡先も交換せずに別れた。
連絡先も交換せずに別れた。
「明日は別のギャラリーでパーティーがあるよ。そこでまた会おう」
この人たちは無料のビールを飲み歩いているのか
アートを堪能して歩いているのか
分からないけれど、私は勝手に仲間になった気でいる。
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