2015年9月6日日曜日

近所の祭り

実家に帰ってきてから、色々と嬉しいこともある反面、涙もろくて困っている。

嬉しいことはようやく家族ののんびりした時間を過ごせていること。父、母、夫、私。これまで夕飯を食べに実家に寄っていたときのような、もてなす側ともてなされる側ではなく、わたしたち4人が新しい家族の形を得て、溶け合いなおしていっているような感覚がある。

夫と出会う前の私を作ってきた数々の瞬間も、ここぞとばかりに存在感をアピールして、今の私にもういちど溶け込もうとしている。そして私にはそれが必要なのだと思う。
  
「運動しなさい。散歩に行きなさい」私がこの世界で最も甘えられる、愛したい人たちにそう言われて外に出て、神輿に誘われるままに北沢八幡のお祭りに行った。鳥居をくぐって中に入っていく大勢の人たちを目にした途端、ぶわりと心が溢れてしまった。

あまりにも長いこと忘れていた風景が急に目の前に現れると、記憶の彼方、押し入れの奥底にしまわれていたその光景を探し出す為にその間にある記憶を投げ出す必要があるのかもしれない。全部一回バケツをひっくり返すみたいに、それが涙になって溢れるのだろうか。

境内を上りながらまだ涙は止まらなくて、あとからあとから滲んでくるう。
 それから「なんで忘れていたんだろう」という驚きが、じわじわとやってくる。

神楽。まき散らされる妖艶さ。走り回る子供たち。しゃがんで相手をする大人。夜を照らす祭りの独特な雰囲気。

私はこの同じ雰囲気に、エクアドルで出会い、ペルーで出会い、その度にほっとしてきた。

世界のあちことに出かけていって結局探していたものは、小さい頃から見ていた実家から10分の距離の光景(と同質のもの)だったなんて、笑い泣きだ。

提灯で照らされた人たちの顔の、その下に座り込んでいる大人たちや、駆け回る子供たちがうごめく提灯の光があたらない層がある。その2層が織りなす妖艶さに、しめつけられるような懐かしさを覚える。

境内までの階段を上って振り返ると神社は小さかった頃よりも広く見えた。ふつうは同じ場所にくると子供のころより狭く感じるのにねと、夫が言って、私は可笑しくなって白状した。

子供のころは境内まで上がってこなかった。屋台をぐるぐる回りながら、小学校のころ好きだったあの子が来ていてばったり会えないかなと、薄暗い中で心臓をばくばくさせながら目を凝らして歩いていた。あの頃は虫の目しか持ってなかったのよ。今は鳥の目もある。

なるほどね、と夫は笑う。

お参りをして、しばらく歩いた。浴衣の女の子たちとすれ違う。お祭りと言えば、中学生のデートだよなあと、夫が言った。好きな女の子が浴衣着てるの見てキュンキュンしたもんな、と。

ここに来るのは恐らく20年ぶりだ。好きだった子に会えないかなとはもう思わない。この先もし子供ができるとしたらやっぱりここに連れてくるんだろうか、彼か彼女は妖艶な光の下の暗がりで走り回って、やれたこ焼きが食べたい、ソースせんべいが食べたいと言いだすのだろうかと、知らないこどもの小さな背中を見ながら考えている。お囃子や神楽の音が掻き立てるのは現実と夢の間にある、実在しそうでしない光景だ。

思い出の光景と、目の前の光景を薄いフィルムを合わせるように重ねてみる。輪郭はぴたりとは重ならない。はみ出した部分が、私の生きてきた時間だ。

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